神の「根源約束」

聖書には、「約束」という言葉が頻繁に出てきます。
でも、その「約束」の内容を見つけ出すのは大変、困難です。
ここでは、その「約束」の内容(「根源約束」という)と、その後の経緯を紹介します。

イエスの「復活」は、この神の「根源約束」に対する「確約」になります。

①旧約聖書における「約束」

選民イスラエルの信仰の根源であり、その拠点となっているものは、太祖アブラハムに対する「選び主」(神)ヤーウエの「約束」(これを「根源約束」と言います。)です。 

(1)アブラハムに対する「根源約束」

「時に主はアブラムに言われた、
『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。
あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』」(創世記12:1-3)。

これが、選民としてのイスラエルの選民性を基礎づけ、その存在を確固にさせている「根源約束」です。

アブラハムがイスラエルの歴史を通して、その「父」とされ、「太祖」とされているのはこのためです。

選民イスラエルは、この約束で、神の「選び」と、「召し」とを与えられ、その現在に立って、その過去までを改造し、その約束の完全な成就を未来に待望しつつ、その歴史を形成してきた民族です。

この意味で、このアブラハムへの約束は、神ヤーウエのイスラエルに対する「根源約束」と呼ばれるのです。

アブラハムに対するこの「根源約束」は、アブラハムだけではなく、イスラエルの「始祖」と呼ばれたヤコブに至るまで、数回くり返され(創世記18:18、22:18、26:4、28:4)、旧約聖書全体を通して、この約束を与えた神は、ご自身を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として自現しています(出エジプト記3:15、その他)。

このアブラハムに対する「根源約束」は、その中に、
①「国土獲得」(「わたしが示す地に行きなさい。」)。
②「子孫繁栄」(「あなたの名を大きくしよう。」)。
③「万民福祉」(「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。」)
という三点をその部分的約束として含んでいます。

この三点をよくみると、
①「国土獲得」は、選民としての国家建設のための基盤に関する約束であり、
②「子孫繁栄」は、その国家建設のための必要不可欠の資料であり、
②「万民福祉」は、この基盤と、この資料とによって建設される選民国家の「使命」であって、選民を真に選民とするものでした。

この三点は、それぞれに対する民族としてのイスラエルの要請されている応答のしかたが異なっています。

①「国土獲得」は、その国土であるカナン占領とその配分が終わるまで、それに対する「信仰」が要請され、その後はこれに対する「感謝」と「想起」とが求められていました。

②「子孫隆盛」は、太祖アブラハム一代(イサクおよびその子たちが生まれてからは)この約束に対する絶対的信仰が要請されていましたが、しかしその後はこれに対する「感謝」が求められていたのです。

③「万民福祉」は、族長時代からカナン占領および国家建設までは、ほとんど選民としてのイスラエルの自覚に現われていません。

この三つの部分的約束を、聖書の歴史(一般の「歴史」に対する用語として、「救拯史」という)でみると、それぞれイスラエルの民族的希望となり、その奮起の刺激となり、その危機に当たってそれぞれその約束の機能を果たしていることがみられます。

そしてそれが「根源約束」の部分であることが忘れられ、しかも個々に分かれ、民族的欲望への刺激とされてきたこどがみられます。

次にこの三点がそれぞれの旧約聖書全体における救拯史において、現われているものを記します。

(2)国土獲得の約束

①「国土獲得」をみると、それは族長三代にわたって確認されています(創世記12:7、13:15、15:7、17:8、26:3、28:13、35:12、48:4)。

個々の場合をみると、その都度その確認で、具体的な指摘がみられます。

まず、アブラハムに対する「根源約束」では、国土の場所が明示されず、「わたしが示す地に行きなさい。」といわれただけですが、次の確認では「この地を与える」と、アブラハムが現在いる地が指摘されています(創世記12:7)。

さらに進んで、次の確認では、
「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。」(創世記13:14ー15)
と、具体的な指摘になり、彼の立つ所だけでなくその「展望できる地」という具体性が現われています。

さらに、イサクに対しては、
「これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。」(創世記26:3)
と、
「これらの地をことごとく」と具体的に確認されています。

進んで、ヤコブに対しては、
「あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。」(創世記28:13)
と、具体的になり、彼が初めて神・経験をしたところとして指摘されています。

この「国土獲得」という約束は、出エジプトからヨルダン対岸に至るまでの記録でさらに具体性が、その「獲得目標」として明らかにされています。

まず、イスラエルを出エジプトさせる使命をうけたモーセに対して語られた言葉には、「良い広い地、乳と蜜の流れる地」(出エジプト記3:8)と言われ、その後くり返して用いられている「目標」としてのカナンの性格記述の言葉が、ここに初めて述べられています(出エジプト記13:5、申命記1:25、8:7、26:9.26:15など)。

次に、荒野に入ってのち、カデシからカナンヘ十二人の偵察隊を出し、彼らがこれを復命した時、彼らは「その地の果物」をもたらし、「まことに乳と蜜の流れている地です。
これはそのくだものです。」(民数紀13:27)
と、その「乳と蜜の流れる」という形容的記述に対する物的証拠を示しています。

ヨルダンの東岸に達し、モーセの遺命を継ごうとしていたヨシュアに対して、さらに新しい具体的な言葉が与えられました。
「わたしのしもべモーセは死んだ。
それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。
あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。
あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。」(ヨシュア記1:2ー4)
と、それまでにはなかった「足の裏で踏む所」という表現が用いられています。

与えられた地ではあるが、しかし「足の裏で踏んで」取らなければならない、というのです。

「国土獲得」が成就されたとき、これに対して次の感謝の言葉がのべられています。
「このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。
主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。
主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。
主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。」(ヨシュア記21:43ー45)
とはその言葉です。

国土が獲得され、王国が建設されてからは、獲得の努力は失せ、その約束の成就への感謝は消えてしまったのです。

そしてついに「国土喪失」となりました。

その前後に、預言者の警告のひとつとなり、その審判の表現として用いられるだけとなったのです(エレミヤ記11:8、32:23、エゼキエル書20:8)。
(例)
「この地を彼らに賜わりました。
これはあなたが彼らの先祖たちに与えようと誓われた乳と蜜の流れる地です。
こうして彼らは、はいってこれを獲たのですが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法を行わず、すべてあなたがせよと命じられたことをしなかったので、あなたはこの災を彼らの上にお下しになりました。」(エレミヤ書 32:22-23 )

この「国土獲得」は、イスラエルがカナンを占領し、これを嗣業(産業)として配分し終わるまで、「信仰」によるべきものとされていました。

そしてその後は、この国土が与えられたことに対する「想起」と「感謝」として、実感されることが求められ、
「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲ることを断じていたしません。」(Ⅰ列王紀21:3、13)
と、生命にも代えて守るべきことが語られています。

この「国土獲得」は、三代の族長にとって、きわめて不思議な経験として描かれています。

アブラハムの場合をみると、その「行く所を知らず」に故郷を出て、その「約束の地」に足を踏み入れて、「この地を与える」といわれ、さらに「見る所の地」といわれていますが、しかしそれは彼の現実の所有とはなっていませんでした(創世記12:7、13:15)。

ただ、死んだ妻サラを葬るために買ったマクベラにあるエブロンの野だけが、彼の実際の所有となっただけだったのです(創世記23:9、17、使徒7:16)。

そして三度、
「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせよう。」(創世記15:8)
と言われたとき、彼は質問して言った、
「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのことをどうして知ることができますか。」(創世記15:18)。

これに対して初めて神との「契約」に入らされたのです。
「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、
『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。
エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。』」(創世記15:18)

この約束が現実的獲得でなく、その地に現実にありながら、しかも単にこれを「約束」としてだけ受けとるということがいかに困難であったかが、この「契約」によって解ります。

出エジプト時代になると、もはや「その地にありながら、これをただ約束として」ということはまったくなくなり、イスラエルがエジプトを脱出して行くべき「目標の地」として目ざすことが命令されています。

指導者として召されたモーセに初めて、「乳と蜜との流れる地」としてその目標の地が如実に示されました。

そしてカデシから十二人のカナン偵察隊を出し、それらが復命したときに、選民の危機が来たのです。

すなわちその二人は、これに攻め入り、侵入を敢行すべしといい、十人はこれと反対に、その地の先住民は強いので、侵入は中止すべしといったのです(民数紀13:30ー31)。

ここでイスラエルは、真の信仰の試練をうけ、二者択一を迫られましたが、彼らはこれに失敗し、その罰として荒野彷徨の四十年を味わわされたのです。     

この信仰の要請は、イスラエルがヨルダン東岸に到着し、モーセが死んで後継者がヨシュアになったとき、さらに具体的に与えられました。

彼らは「信仰によって」ヨルダン川を渡らなければならなかったのです。
そしてこれを渡り、自己の「足の裏で踏」(ヨシュア記1:2-3)まなければならなかったのです。

その「信仰」とは、
「神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう。」(ヨシュア記3:11以下)水の中に入らなければならないということだったのです。

これは「紅海渡渉」のときに、海の水がかわいて、左右に垣となったのをみた上で、全体が通過したのとまるでちがって(出エジプト14:16、22)、岸まであふれているヨルダン川に、「信仰」をもって、その祭司たちは、その足を水の中に踏み入れなければならなかったのです。

でも、このときはこの試練に合格し、初めて父祖伝来の「約束の地」ーーカンナに侵入することができたのです。

「足の裏で踏む所」といわれたように、イスラエルはカナンに足を踏み入れてのちも、その部分部分の占拠に、信仰をもって当たらなければならなかったのです。

この実例は「エリコの陥落」によって示されています。
そしてその信仰の弛緩は、彼らの大惨敗に終わったのです(ヨシュア6-7章)。

「ヨシュアは言った、
『ああ、主なる神よ、あなたはなにゆえ、この民にヨルダンを渡らせ、われわれをアモリびとの手に渡して滅ぼさせられるのですか。われわれはヨルダンの向こうに、安んじてとどまればよかったのです。』」
とは、その時のヨシュアの叫びである。

さらに、その配分された嗣業(産業)の具体的獲得に進まなかった七部族に対して、譴責の言葉が語られたのです。
「ヨシュアはイスラエルの人々に言った、
『あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか。』」(ヨシュア18:3)。

国土が獲得され、嗣業として各部族に配分されて、ダビデ、ソロモンによって国家が建設されるようになると、この「獲得完了」の恵みは、
「このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。」 (ヨシュア記21:43以下)
と、「国土獲得」に対する「想起」と「感謝」さえも、忘れられたのです。

(3)子孫繁栄の約束

アブラハムに対する「根源約束」(創世記12:1-3)の第二の部分、「子孫繁栄」は、これも族長三代にわたって、くり返し確認された(創世記13:16、15:5、17:2b.17:6、18:18a。22:17、26:24d、28:14a、35:11、46:3、48:4a)。

この「子孫繁栄」の約束には、二つの条件がつけられていました。

①「嫡出直系」ーー正妻の子であること、「血統純潔」という条件ーー妻は同族の女であることという条件とでした。

②「子孫繁栄」のための当然の要請としてみられた「異民制圧」ということでした(創世記22:17、24:60、出エジプト記15:14以下、申命記7:16、7:24、11:23など)。

イスラエルが出エジプトして後、荒野を経てカナンを占領する場合には、周囲の異民族との闘争が必然的に予想されます。
そこで必ず彼らを征服しなければなりません。
このために「あなたの子孫は敵の門を打ち取り、」という象徴的表現で始まる、一連の付帯的約束(創世記22:17c)が与えられたのです。

「子孫繁栄」という「根源約束」の第二の点は、それを与えられたアブラハムにとって一大困難でした。

彼には、その妻サラとの間に男児がいませんでした。
サラは閉経していました。
このために彼は数回、神に祈ったのです。

第一回は、彼は自分に子がないので、その奴隷頭、ダマスコのエリエゼルを相続人にしようとしました。
このとき神は明らかに「あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです。」と言われ、彼に天の星を示し、「あなたの子孫はあのようになる。」と約束されたのです。

これをアブラハムが信じたので、
「主はこれを彼の義と認められた。」(創世記15:2ー6)
とありますが、これが聖書にの「信仰と義」とに関する最初の言葉です。

第二回は、彼の妻のサラから出ました。
彼女は、自分に男児ないため、その女奴隷を夫に与え、それによって得た子を、その相続者にしようとしたのです。

このためアブラハムの家に紛争が起こりました(創世記16章)。
神は、アブラハム夫婦の不信に対して、さらにくり返してその嫡出の男子が与えられることを確認されましたが、二人はなおも懐疑的態度を捨てなかったのです。
「アブラハム伏して笑い」(創世記17:17)
とは、その態度を表現した句です。

時至って、神はその約束の通りに、アブラハム夫婦に男児イサクを与えられました。
そしてもう一度「イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。」(創世記21:12)と言われました。

これによってアブラハムの太祖としての試練は終わったようにみえましたが、しかし最後のそれは、より高度の試練としての残されていたのです。

「ひとり子イサクを燔祭としてささげよ」(創世記22章)
は、ひとり子だからこそ彼の苦悩がはなはだしかったというだけでなく、彼がカルデヤから召し出され、そのとき与えられた「子孫繁栄」の約束の成就が、一にかかってそれにありというべきひとり子をささげよとの命令がそれでした。

イサクがなければその約束は完全に無になり、彼の故郷を離れたという事実と、その後の生涯とは、何の意味もないものとなるのです。

しかし、彼はこの試練に合格しました。
そしてこれによって「子孫繁栄」の約束は、彼とその子孫「とのため」という利己的なものではなく、第三の約束である「万民福祉」のためのものであったことを知らされたのです。

次のイサクは、その妻を同族の中からめとりました。
それがリベカの物語です(創世記24章)。
アブラハムはその奴隷長に、
「あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない。」(創世記24:4)
と命令し、その奴隷長は忠実にこれに従い、リベカをイサクの妻にしたのです。

イサクの場合には、父の場合と同じく、その相続者であるヤコブに、その同族からその妻をめとらせようとしました。

ここでアブラハム・イサクの直系でも、必ずしも選民ではないという、後に「抽出」と「棄却」となった、「選び」が現われました。

後世まで、
「わたしはヤコブを愛し、 エサウを憎んだ。」(マラキ書1:2、創世記25:23参照)
という表現となった「選び」がそれです。

しかし、これは創世記では、兄と弟との性格の相違と、その父祖の信仰的遺産(家督の権または長子の権)とに対する態度の相違を通して実現されたものといわれ、具体的には「家督権の売買」によって現実となったとされています(創世記25:27ー34)。

この「選び」にあずかった第三族長ヤコブは、「始祖」とよばれるようになりましたが、それは彼の子たちが、真に「子孫繁栄」の約束が成就されたものとしての「十二族」の直接の祖であったためです(創世記29ー30章、46:8ー27)。

この「子孫繁栄」の一応の成就としての媒介となった彼の「感謝」が、
「父アブラハムの神、父イサクの神よ、かつてわたしに
『おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け。
わたしはおまえを恵もう』
と言われた主よ、 あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。
わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの組にもなりました。」(創世記32:9ー10)
という言葉となりました。

ヤコブの子孫がエジプトに移住したときは、その数「あはせて七十人」(創世記46:27)といわれています。

これが出エジプトのときには、「女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人」(出エジプト記12:37)であったとしるされています。
荒野彷徨の四十年中に増加した数もそう大きくはなかったのです(民数紀2:32、3:39)。
そしてそのほかに「多くの入り混った群衆」がありました。

これがエジプトを出て荒野に入り、シナイ・ホレブ山でヤーウエとの契約に入れられましたが、これに対する感謝を忘れ、不平不満つぶやきをもって、その日々をみたしたのです。

そして不信仰のため「四十年」の彷徨を罰として与えられ、ヨルダンを渡って「約束の地」に侵入したときは、
「エジプトから出てきた民のうちの、すべての男子、すなわち、いくさびとたちは皆、エジプトを出た後、途中、荒野で死んだ」(ヨシュア記5:4-6)
のです。

王国が建設され、第二代の王ダビデは、その王業がほぼ完成したとき、全国の人口を調査しました。
その結果「イスラエルには、つるぎを抜く勇士たちが八十万あった。ただしユダの人々は五十万であった。」(Ⅱサムエル二四・九)。
歴代志には、「一百十万人と四十七万人」としるされています(I歴代志21:5)。

こうして「子孫繁栄」の約束が成就されたイスラエルは、その「選び主」に対する背反の罪によって、国は南北に分断され、北王国も(Ⅱ列王紀17章)、南王国も(Ⅱ列王紀25章)ともに滅ぼされました。

そして、ペルシャ王クロスの釈放と帰還命令によって、故国に帰った者もきわめてわずかでした(エズラ2章)。

「子孫繁栄」という「根源約束」の第二点に対して、イスラエルの取るべき態度は、「感謝」でした。

ダビデの人口調査に当たって、それを命じられた将軍ヨアブが、「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。
そして王、わが主がまのあたり、それを見られますように。
しかし王、わが主は何ゆえにこの事を喜ばれるのですか。」
といったのは、「感謝」して、神のなしたもう結果を見るという意味で、ダビデがその王業完成に慢心し、人口調査によってその偉大なことを誇ろうとしたためであったと考えられたものでしょう。

この「子孫繁栄」に対してささげらるべき「感謝」の言葉は、モーセがヨルダン東岸で、イスラエルに教えたといわれている、
「わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、人数の多い国民になりました。」(申命記26:5ー10)
という言葉です。

この態度を忘れたのが、イスラエル指導者の根源的な誤謬でした。

もっとも始祖ヤコブでさえもすでにこれを忘れ、ただ兄エサウに迎え討たれそうになり、その恐れにあったとき、この感謝をささげただけです(創世記32:9ー12)。

「子孫繁栄」は.「国土獲得」と一見異なり、信仰的に考えないかぎり自然発展と考えられますから、この結末にいたるということは、当然の結果でした。

(4)万民福祉の約束

「根源約束」の第三の「万民福祉」に対する責任と自覚は、民族的使命観の問題なので、イスラエルにとっては、三点中最も困難なものでした。

族長時代には、格別この点について、その意義を発揮するという機会はありませんでした。

しかしエジプトを脱出して、シナイ・ホレブ山で、神との契約が結ばれて、使命としてのこの責任がより明確にされたのです。

「あなたがたはわたしにとって『祭司の王国』、『聖なる国民』となる。」(出エジプト記19:6)
がそれです。

この「祭司の国」という語と、「聖なる民」という語とは、そのときイスラエルは自覚しなかったとしても、相反的概念です。

「聖い民」とは、「聖別された民」の意味で、後に、
「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。
主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。」(レビ記20:26)
といわれる内容をもっています。

一方、「祭司の国」とは、これとは反対に、世界万民に代わり、彼らを代表して神の聖前にとりなすための国という意味です。

ここにイスラエルの選民性が明確にされたのであり、したがってそれによってその危機的性格が明瞭にされたのです。

しかし「子孫繁栄」が、信仰によって感謝の対象としてうけとられず、自然的発展の結果としてみられるようになったのと同じように、この二つの語による規定は、分離され、そして「聖なる民」の方だけが、民族の誇りとして「特権意識」または「民族至上主義」として強くなっていったのです。

これが旧約聖書を一貫したイスラエルの根本的な誤りでした。
そしてそこに「包容主義」と「排外主義」との思想的闘争の端緒が開かれました。

このシナイ・ホレブ契約にある規定としての二つの語が分裂して、「聖なる民」が、一方的に民族の心理を支配するようになると、「子孫繁栄」に付帯した「異民制圧」と自然に結びつくようになったのです。

ここに「民族至上主義」が支配的になり、
「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。」(創世記12:2)
という言葉は容易に、
「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」(創世記22:17)
と結合されてしまったのです。

そしてそれが民族の「直接目標」となったのです。

カナン占領も、この「直接目標」の刺激によって行なわれたとも言えますが、ことにそれを感謝した「国土獲得」完成の記録は(ヨシュア記21:43)、この「万民福祉」という一点がまったく除かれた上での感謝でした。 

(例)
「このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。
主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。
主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。
主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。」

しかし、この「根源約束」中最も重要な一点は、まったく忘れ去られたままではありませんでした。

民族最大の出来事であったエルサレム神殿建築完成に際してのソロモン王の祈りの中にそれが表われています。

「また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、ーー彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞きますからーーこの宮に来て祈るとき、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天でこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。
そうすれば、この地のすべての民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じように、あなたを恐れるようになり、私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。」(I列王紀8:41以下)
という異国の民のための祈りがそれです。

この点は、かすかですが、物語書としてはルツ記の包容精神と(ルツ記4:16以下)、預言書としてはヨナ書に表われています(ヨナ書4:10ー11)。

しかしこの選民イスラエルの使命は、ひとりの無名の預言者によって、初めて明確に、崇高に示されるようになったのです。

イザヤ書後半を見ると(イザヤ40章以下)、そこにヤーウエの僕イスラエルはヤーウエの、
「あかし人」(イザヤ43:10、12、44:8、55:4)といわれ、
「異邦人の光」(イザヤ42:6、49:6、51:4、60:3)といわれ、さらに「また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。
彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。 」(イザヤ56:6ー7)
といわれ、
「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」
という「万民福祉」をそのままに歌い出した崇高な言葉がしるされています。

この崇高な預言は、さらにこのイザヤ書後半中に歌い出されている「苦難の僕」または「主の僕」の歌とよばれている一連の詩の中に表われています(イザヤ42:1ー4、49:1ー6、50:4-9、52:13ー53:12、61:1ー13、62:1ー5)。

ことにその第一の詩はそのままイスラエルの大使命と、その貫徹とのさまを、無名の僕の姿をもって歌っています。

「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。
彼はもろもろの国びとに道をしめす。
彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、 また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ書 42:1-4 )

そしてその第四の詩は、その「僕の苦難」を、沈黙の犠牲者の姿で歌っています。

「見よ、わがしもべは栄える。
彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
多くの人が彼に驚いたようにーー彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからであるーー彼は多くの国民を驚かす。
王たちは彼のゆえに口をつむぐ。
それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。」(イザヤ書 52:13-15 )

しかし大声は群衆の耳にはいらなかったのです。
この預言者の後、ほとんどこの「万民福祉」の使命を自覚した言葉は現われていません。
ただ歴代志中に、エルサレム神殿建築完成にさいしての、ソロモン王のささげた祈りの中に、前記の列王紀にしるされたのと同じ言葉が現われているだけです(Ⅱ歴代志6:32ー33)。

この部分を列王紀からの引き写しとする見方は、この歴代志の性格から考えて無理のように思われます。

というのは本書そのものが神殿の下級奉仕者の上級奉仕者に対する抗争の書であり、また神の言葉を独占した預言者に対する(アモス書3:7)レビ族の抗争の書であり、ことに本書の態度が、イスラエルの南北王国のうち、南のみを選民とし、北の選民性を否定していることでみられるように、きわめて偏狭であったことをみれば、このソロモンの祈祷中の異邦人に関する部分は、けっして無自覚に列王紀から引き写しにしたものとは思われません。

アブラハムに対する「根源約束」中の第三点であり、イスラエルの責任と使命とを示す「万民福祉」の理想は、かろうじてその最後の書である歴代志にそのかすかな反響を示しただけでした。

②新約聖書の「根源約束」の再解釈

新約聖書では、この「根源約束」をその究極点までさかのぼり、神を、
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」(ヘブル10:23、11:11)
と言い、そしてキリストを、その「根源約束」に対する「確約者」として、
「神の約束はことごとく、この方(イエス)において『しかり』となりました。
それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。」(Ⅱコリント1:20)
といっています。

この「確約」は、イエスの「復活」(よみがえり)によって証明されたものとし、
「私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。
神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。
詩篇の第二篇に、
『あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ』
と書いてあるとおりです。
神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、
『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』
というように言われていました。」(使徒13:32ー33)。

この「確約」の結果、「喜ばしい音信」(福音)は、異邦人にまで及び、「根源約束」は、その意味で「完全な成就」を見、その「保証」として御霊が与えられたのです。

「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:14)
とは、パウロがこの点を再解釈したものです。

この再解釈は、新約聖書に一貫したもので、ペンテコステにおける教会創設にさいしてのペテロの説教中には、
「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
といい、さらに、
「あなたがたは預言者たちの子孫です。
また、神がアブラハムに、
『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』
と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。」(使徒2:39、3:25)
といっている。

このキリストによって「根源約束」が「確約」され、それが異邦人にまで及んだということは、その原初的の受け取り手であるイスラエルに対する意義が失われたとしているのではないのです。
むしろイスラエルに対する意義こそ絶対に変更されず、
「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ロマ書11:29)
と、パウロによって断定されています。

そしてそれはキリストこそ、
「しかし、シオンには贖い主として来る。
ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」
ーー主の御告げーー
『これは、彼らと結ぶわたしの契約である』
と主は仰せられる。
『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない』
と主は仰せられる。」(イザヤ書59:20-21、27:9)
とイザヤ書に述べられている預言の成就とされ、かつ、
「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
こう書かれているとおりです。
『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。
それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』」(ロマ書11:26-27)
とまでいわれています。

またパウロは、キリストもさらにこのことの「確約者」であることを力説し、
「私は言います。
キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。
それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。
こう書かれているとおりです。
『それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。』」(ロマ書15:8ー9)
としるしています。

したがってパウロは、この言葉からみると、太祖アブラハムへの「根源約束」の第三点である「万民福祉」が成就するための媒介として異邦人の使徒となったということができます。

「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。
私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。
それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(ロマ書15:16)
という彼の言葉は、このことを語っています。

旧約聖書のアブラハムに対する「根源約束」は、新約におけるキリストによって、初めて「成就」し、「確約」されたことになります。

したがってそれは、「すでに」成就された約束とみられてはいますが、しかしそれは「いまだ」成就されたものではなく、最終の完全な成就を「神の国」に待つべき約束です。

たとえば、「根源約束」の第一の点である「国土獲得」についてみると、それは「すでに」成就された約束で、そこには「こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。」(ヨシュア記21:43ー45)
と記されています。

しかし、ヘブル書はこれについて、
「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。」(ヘブル4:8)、
さらに、
「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」(ヘブル3:12)、
「神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、」
といい、そして、
「荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」
と、民数紀14章と詩篇95篇(7、12)を引用して勧めています。

この「すでに」成就された約束と、「いまだ」成就されず、その成就を今後に待つという約束とは、いうまでもなく別の約束ではなく、一つの約束です。

それがただ「キリストによって」このように、「すでに」と 「いまだ」とに分かれているのです。

新約聖書は、この「すでに」と「いまだ」とをつなぐものとして、「聖霊」が与えられることをのべています。

「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。
これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:13ー14.Ⅱコリン1:22、5:5)
とは、このことをいった言葉です。

この言葉の中の「保証」とは、意味深い言葉で、ヘブル語をそのまま用いていて(arrabon)この「保証」または「手付け金」の意義を強めているのです。

聖書に多用されている「約束」の内容であるアブラハムへの「根源約束」(創世記12:1ー3)、「国土獲得」「子孫繁栄」「万民福祉」についてみてきました。

このすべてが完全に成就されるのは「神の国」(天国)においてです。
信仰者は、それを「いま」「いま」として生きていくことになります。

③「永遠の契約」

上記の、神の「根源約束」を基にして、多くの「契約」が結ばれました。
その「契約」の中で、「永遠の契約」と呼ばれるものを下記に記します。

⑴「安息日の契約」
「神はその第七日を祝福して、これを聖別されました。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」(創世記2:3)。

これは出エジプト記で,
「六日のあいだは仕事をしなさい。
七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。
すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。
ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。」(出エジプト記31:16)
と、「永遠の契約」とよばれています。

エレミヤの、
「主はこう仰せられる、もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約を破り、また夜と結んだわたしの契約を破り、昼と夜が定められた時に来ないようにすることができるならば、 しもべダビデとわたしが結んだ契約もまた破れ、彼はその位に座して王となる子を与えられない。
またわたしがわたしに仕えるレビびとである祭司に立てた契約も破れる。
天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない。
そのようにわたしは、しもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビびとである祭司の数を増そう」(エレミヤ 33:20-22 )。

このエレミヤの
「昼と夜との契約」とは、この「安息日」の契約の別称です。

⑵洪水後の「ノア契約」

「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。
またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。
わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。(創世記 9:9-11 )
とあります。

そして神はノアに言われました、
「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである。」(創世記9:17)

この意味で、この契約は人間だけでなく、あらゆる生物との契約です。
これが近代神学におけるいわゆる「保存の神学」の聖書的起源である。

そしてこの契約の象徴として、
「わたしは雲の中に、にじを置く。
これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。」(創世記 9:13-14 )
といわれています。

「虹」は、宗教史的にいえば、弓を横たえた形で、休戦(平和)を意味した象徴です。

イザヤ書でも、この契約について、
「このことはわたしにはノアの時のようだ。
わたしはノアの洪水を、再び地にあふれさせないと誓ったが、そのように、わたしは再びあなたを怒らない、再びあなたを責めないと誓った。
山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」とあなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ書 54:9-10 )
といわれています。

⑶「アブラハム契約」

「アブラハム契約」は、「約束の地」獲得に対する確約として与えられました。
「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、
『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。
エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。
すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、 アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える』」(創世記 15:18-21 )。

これに対しては先行条件として、アブラハムに対する前述の「根源約束」があったのです。

「アブラハム契約」の確認の象徴として、「割礼」が与えられた(創世記17章)。

この「アブラハム契約」もまた、
「あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。
こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。」(創世記 17:13)
と、「永遠の契約」と言われていますので、「安息日の契約」、「ノア契約」と同じく、「永遠の契約」です。

この契約は、ことにイスラエルの苦悩の時代に、神の恵みを祈願させる、力ある手がかりとなりましたし、また神ご自身の彼らに対する憐れみの根拠となったのです。

彼らがエジプトにあって、
「神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、 神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。」(出エジプト記 2:24-25 )。

この憐れみが源となって、指導者モーセの召命となり、「出エジプト」「紅海渡渉」となり、「シナイ契約」(出エジプト20章)となったのです。

この「シナイ契約」は、それに先行した「アブラハム契約」の確認として与えられたものとされています。


この記事へのコメント