「対話」-神と人ー、-人と人ー

「神と人との対話」-1 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉があります。 キリスト者は、総じてこれをしませんので、「一生の恥」になりやすのです。 夏目漱石は、聖書に親しんだ人でしたが、「キリスト教徒の臭いが嫌いだ」と言ったそうです。 「独り言の世界」に閉じこもる「独善」が嫌だったのでしょう。 キリスト者が「聞かなかった」り、「対話」をしないのには理由があります。 「ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」(Ⅱテモテ2:14) 「愚かで、無知な思弁を避けなさい。 それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。 主のしもべが争ってはいけません。」(Ⅱテモテ2:23ー24) 「しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。」(テトス3:9) など、「対話」「対論」「対決」というようなことを、「悪徳」であるかのように考えさせる言葉が聖書にあるからです。 ところがこの聖書の警告の言葉は、「感情的論争」に対するもので、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」としての対話や、「正しい対話」に対するものではありません。 聖書中にあるのは、「対話の生命(いのち)」であって、「教理」でもなければ「神学」でもありません。 旧約聖書を読めば、「神と人との対話」が充満していますし、新約聖書の福音書では、「人と人(神が人となって来たのでイエ…

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